【深い&読みやすい】フロム『愛するということ』

リベラルアーツ

超深いのに読みやすい!

今回は、
骨太の内容、読みやすい、そして実生活に活かせる!
…という三拍子がそろった、エーリッヒ・フロムの本です。

エーリッヒ・フロム(1900~1980)は、フロイト、ユング、アドラーなど、有名な心理学者たちとほぼ同時代の人物。

代表的な作品は、
『愛するということ』
『生きるということ』
『自由からの逃走』
など。

2つの世界大戦という人類史上まれに見る悲劇に直面した20世紀前半。
この時代を生きたこの時代の心理学者らの洞察の深さは、飛び抜けていますね…。

エーリッヒ・フロムはドイツのフランクフルトで生まれ、両親の家系は両方とも熱心なユダヤ教家系でした。フランクフルト大学の研究員として精神分析の研究を続けドイツの心理学界に大いに貢献を果たしました。

しかしこの時期にドイツで台頭してきたのが、ヒトラー率いるナチス党でした。次第にナチスは反ユダヤ主義を掲げ、大規模なユダヤ人迫害を行うようになります。

ユダヤ人であったフロムもそれに伴いスイスに移住し、その後アメリカへ亡命。フロムの著名な作品は、それ以後に書かれたものです。

この記事ではフロムの作品の中から『愛するということ』を取り上げます。
(最近、新訳が出たそうです!初めて読むにはよいタイミングですね!)

「愛されたい」のに幸せになれない問題

本書の発刊は1956年。それから70年近くたった現代を生きる僕たちにとっても、フロムは耳の痛いことをズバズバと指摘してくれます。

1つ目の指摘は、

たいていの人は愛の問題を、「愛する」という問題としてではなく、「愛される」という問題として捉えている。
そういう人々にとって重要なのは、「どうすれば愛されるか」「どうすれば愛される人間になれるか」ということだけど、本当にそれで幸せになれるのか…?

というものです。

そうなんですよね。
僕たちはともすると、「どうすれば愛される人間になれるか」ということばかり考えてしまいます。

そして、自分が愛されるに値する人間でないことや、
自分より他にもっと「愛される人間」がたくさんいることに絶望したりしています。

でも、「愛とは技術である」と喝破するフロムは、「どうすれば愛されるか」を考え続けても一生幸せになれないよ、と教えてくれます。

「どこかにいい人いないかなー」問題

次にフロムが指摘するのは、

私たちはいつも、愛の問題とはすなわち「対象」の問題であって「能力」の問題ではない、と思いこんでいる。
すなわち、「愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手、あるいは愛されるにふさわしい相手を見つけることが難しい」と考えている。

ということです。

これもドキッとした人は多いのではないでしょうか。
よく漫画とかで、主人公(男性の場合も女性の場合も)が「どこかにいい人いないかなー?」と言っているシーンありますよね。

もしフロムがその場にいたら、
「愛は対象の問題じゃねぇんだ!お前は『愛するにふさわしい相手』が目の前に現れればそれを愛することは簡単だと思っているが、そんなわけねぇだろバカヤロウゥゥゥ!!!!!!」
とブチギレしていると思います。

僕たちが人間として幸せに生きていくためには、「愛する」ということをもっと真剣に考えようぜ
というのが、フロムの提案です。

「母親的な愛」と「父親的な愛」

「愛するということをもっと考えよう」と言っても、ちょっと難しいですよね。
そこで、愛に関するフロムの印象的な視点を一つご紹介します。

それは、「母親的な愛」と「父親的な愛」という考え方。
まずはフロムの文章を見てみましょう。

子どもははじめ、「すべての命の根拠」である母親に密着する。全てを包み込んでくれる母親の愛を求める。
その後、愛を向ける新しい中心として、父親を求めるようになる。父親は、思考と行為を導いてくれる原理である。この段階では、子どもの行為の動機となるのは、父親にほめられたいという欲求である。
じゅうぶん成長すると、子どもは、守ってくれる母親からも、命令する権威としての父親からも自由になり、自分自身の内に母性原理と父性原理を作り上げる。
こどもは自分自身の父親となり母親となる。

母親に愛されるというこの経験は受動的である。…母親の愛は無条件なのだ。…母親の愛は至福であり、平安であり、わざわざ獲得する必要はなく、それを受けるための資格もない。

…母親は私達がうまれた家である。自然であり、大地であり、太陽だ。父親はそうした自然の故郷ではない。

父親は自然界を表しているのではなく、人間の生のもう一方の極、すなわち思考、人工物、法と秩序、規律、旅と冒険などの世界を表している。子供を教育し、世界へつながる道を教えるのが父親である。

フロムによれば、

母親的な愛は、無条件で自分を受容し、抱きしめてくれる優しさの愛
父親的な愛は、「頑張れば認められる」という条件付きで、努力や成長を促してくれる愛

ということになります。

そして彼は、そのような2つの「愛」を受けて育った子供はやがて、自分自身の中にその2つの価値観の柱を持つに至るといいます。

成熟した人間は、いわば母親的良心と父親的良心を併せ持っている。
母親的良心は言う、「おまえがどんな過ちや罪をおかしても、私の愛はなくならないし、おまえの人生と幸福に対する私の願いもなくならない。」
父親的良心は言う、「お前は間違ったことをした。その責任を取らなければならない。私に好かれたかったら、生き方を変えねばならない。」

本書が刊行された当時と違い、性に対する価値観が多様化した現代においては、
「母親的な愛」→無条件の愛
「父親的な愛」→条件付きの愛
と言い換えた方がしっくり来るかもしれません。
(父親だって「母親的な愛」は与えられるし、母親だって「父親的な愛」を与えることはできるので)

呼び方はどうであれば、大人になった僕たちにおいても、この「2つの愛」を心の中に意識しておくことはとても重要だと思います。

もっと頑張ったり成長したりする必要がある時は、条件付きの愛(父親的な愛)で自分に叱咤激励する。
頑張りすぎて心や体がボロボロの時は、無条件の愛(母親的な愛)で自分を優しく包み込む。

人間、生きていれば調子がいい時期もつらい時期もあるので、こんな生き方が大事かなと思います。

まとめ

この記事で紹介した「愛」に関するフロムのメッセージは、

人は愛の問題を、「愛する」という問題としてではなく、「愛される」という問題として捉えがちだけど、「どうすれば愛されるか」を考えていても幸せになれないよ
「愛するにふさわしい相手を見つけるのが難しい」と考えている間は幸せになれないよ

の2つです。

そして僕たちは、どんな時であれ
・条件付きの愛(父親的な愛)
・無条件の愛(母親的な愛)

というように、自分の中に2つの「愛」を持つことが大事なのだろうと思います。

最後に、本書の中で、家族や子育てという観点で印象に残った箇所もご紹介しておきます。

一人の人を本当に愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。誰かに「あなたを愛している」ということができるなら、「あなたを通して、全ての人を、世界を、私自身を愛している」といえるはずだ。

子供の生命の肯定のいま一つの側面は、生きることへの愛を子供に植えつけ、「生きているというのは素晴らしい」「子どもであるというのは良いことだ」‥といった感覚を子どもに与えるような態度である。…子どもに、人生に対する愛を教える。…母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならない。

最後までお読みいただきありがとうございました!


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