「やりがい教」の奴隷になっていないか?
世の中には稀に、真理を言い当てすぎていて読むのが不愉快になる本というものがあります。
人によっては、本書はその類の一冊になるかもしれません。
・志を持って生きたい、大きな目標に向かって邁進したい
・もっと成長したい、高みを目指したい
・価値のあることに没頭したい、夢中になりたい
・社会を変えたい、ビジョンやミッションを大切にしたい
心の中にそのような思いがある人(←僕自身を含むw)にとって、「暇と退屈」に対する本書の考察はグサリと来るものがあります。
なぜかって?
それはこの本が、「君は自ら進んで、『やりがい教』の奴隷になっていないか?」と問いかけてくるから。
そんな問いかけにイチイチ耳を傾けていたら、人生のスピードは減速します。
そんなことを考えていない方が、目標に向かって走りやすいんです。
だから、「自分のやりたいことはコレだ!これに没頭しよう!」という人にとって、この本は不愉快かもしれません。
でもね、「良薬は口に苦し」。
『暇と退屈の倫理学』を「服用」することで、僕たちは自分の人生をメタ認知し、より強固に足場を固めることができるのです。
1万年前、人類は「退屈」に出会った
本書は、現代人の以下のような切実な「渇き」を言葉にするところから始まります。
自分はいてもいなくてもいいものとしか思えない。何かに打ち込みたい。自分の命を賭けてまでも達成したいと思える重大な使命に身を投じたい。
なのに、そんな使命はどこにも見あたらない。だから、大義のためなら、命を捧げることすら惜しまない者たちがうらやましい。
生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうしたなかに生きているとき、人は「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望する。
そして、次のような疑問を矢継ぎ早に読者に投げかけます。
- そもそもなぜ、人は「何かに没頭したい、夢中になりたい、打ち込みたい」と思うのか?
- 没頭できる何かがないと不安になり、目標を見つけることで「安心」を得られるのはなぜなのか?
- 志を持って生きることは社会的には評価されるだろうが、人は本当に、それによって「幸せ」になっているのだろうか?
- あなたが社会的に評価されることに突き進んでいるのは、本当は心にぽっかりと空いた「穴」を埋めるための偽装工作なのではないだろうか?
本書の特徴は、このような疑問に対して自己啓発的な「お説教」を聞かせるのではなく、「暇と退屈」という切り口から哲学的な論理を展開すること。
しかも、徹頭徹尾「日常の言葉で」語りかけてくれます。
※ ※ ※
本書によると、人類は誕生してからずっと遊動生活を送っていましたが、約1万年前に定住生活を始めました。
遊動生活と定住生活では生きる様式が全く異なるため、人類はたくさんの大きな変化に直面しました。

その中でも最も重要な変化は、定住生活をはじめたことにより、人類は「退屈を回避する必要」に迫られるようになったということ。
遊動生活をしている間、人類は「退屈」を知りませんでした。彼らは移動のたびに新しい環境に適応しなければならないためです。
しかし、定住によって人間は毎日同じ環境で暮らすことになり、これによって「退屈」と出会ったといいます。
その意味で、本書は「暇と退屈に対してどう立ち向かうか」という人類1万年来の課題に対する回答という意味を持っているのです。
哲学的な思考プロセスを体験する
では、現代における白眉の哲学者、著者の國分功一郎はどんな「回答」を示したのでしょうか?
残念ながら、「結論」と題された末尾の章で「ここに書かれた結論だけを知っても無意味である!この本の結論は、議論の過程を理解して初めて意味を持つものだ!」と國分から釘を刺されているので、ここで結論をご紹介することはできません(笑)
ただし、一つ明言できることは、國分は
「人生は暇つぶしである。暇をつぶすために、人間は没頭できる何かを探すのである」
というような凡庸な回答で話を終えたりはしていないということ。
時代で言うと400万年前の人類の狩猟採集生活から現代までを縦横無尽に駆け回り、
ニーチェ、マルクス、ルソー、ヘーゲルなど哲学界の大御所たちのキーコンセプトを批判的に検討しながら、人間の「やりたいこと」と「暇・退屈」の関係を解き明かしていきます。
本書の結論部分は、超難解な書物で有名なマルティン・ハイデッガー(1889 – 1976)の退屈論をこれでもかというほどわかりやすく援用しながら、僕たちに希望の光を与えてくれるものです。
また、本書は冒頭で言及した『やりがい教』の奴隷(?!)となっている人々だけでなく、「リベラルアーツは興味あるけど、哲学って何するの?」という方にもおすすめです。
なぜなら、この一冊を通読することで、
近代、現代の哲学者達の重要なコンセプトを学ぶことができ、
「論理的なプロセスをたどって人間や人生に対する新しい考え方を発見する」
という哲学の営みを体験できるから。
國分のいうように、哲学にとって重要なのは、結論ではなく思考のプロセスです。
知識ではなく考え方の発見です。
これほどわかりやすく哲学的な思考のプロセスを「体感」できる本は珍しいと思います。

まとめ:哲学の醍醐味は「価値観を揺さぶられること」
思うに、偉大な哲学は必ず、僕たちが(当たり前に正しいと)信じている価値観に根本から揺さぶりをかけてきます。
この揺さぶりをかけられると、「そんなわけないだろ!」と初めは拒否や怒りの感情が湧いてきます。
でも、そこで述べられている内容を丁寧にたどっていくと「たしかにそうだよねー」と首肯せざるをえないことが多いんです(笑)
この「拒絶から納得へ」というプロセスをたどると、他の学問では味わえない独特の爽快感を得ることができるのです。
「君は自ら進んで、『やりがい教』の奴隷になっていないか?」と問いかけてくる本書を読んで、そのような体験を皆さんにもしてもらいたいなーと思っています。
※ ※ ※
この記事では散々「哲学」という言葉を使ってきましたが、本書のタイトルはあくまで暇と退屈の「倫理学」。
倫理学だからこそ、僕たちの人生をより豊かにための実践的なアドバイスをくれる希望の書ともいえます。
とはいえ、本書は決して、読者に「頑張るな成長を目指すな、スローに今を楽しめ」というような「今風」の生き方を提唱するものでもありません。
不都合な「真実」にしっかりと目を向けた上で、勇気を持って豊かな「今日」を生きるための活力を得られる…。この本にはそんな効力があるのではと思います。
「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾らなければならない」
ウィリアム・モリス
本書で紹介される印象的な一節です。
自分の人生にとって「バラ」とは何なのか?しっかり考えていきたいものです。
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